昼食を買いにコンビニへ行ったら夕刊紙の1面に目が止まってビックリ…
野球界の親分 元日本ハム監督・大沢啓二氏が死去
20代の若い方には【日曜日の朝に『喝!』と叫んでいるおじいちゃん】、私らの年代だったら、【後楽園・東京ドーム時代のファイターズの礎を作った方】、親の世代なら【南海ホークス全盛期の外野手】、長きにわたりプロ野球に貢献されてきた大沢啓二さんが7日朝、お亡くなりになられました。
大沢親分は、横浜市保土ヶ谷区の神奈川商工から立教大学を経て1956年に南海ホークスに入団。高校を卒業してテストでホークスに入団3年目の野村克也さんがレギュラーを取った年…と言えば、どんな時期だったか想像がつくでしょうか?
ホークスでは広瀬さんを筆頭に杉山光平さん、穴吹義雄さんら外野手の層が厚く、完全にレギュラー獲得まではいかないものの、9年間プレー。最後の1年は東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)へ移籍して現役を引退しました。
現役引退後は、オリオンズでコーチ・監督。ファイターズでも2度にわたって監督を務められました。
私は5年弱首都圏に住んでいました。最初の2年は専門学校に通っていたのですが、学校の場所は神田駿河台。つまり、旧後楽園、現在は東京ドームは目の前でした。バイトの無い日、何度かファイターズの試合も観戦したものであります。
その当時の監督が大沢親分。
攻撃陣は大砲・ソレイタを軸に、確実性の高い中距離打者のクルーズ、俊足のトップバッター・島田誠さん、勝負強さが光る柏原さんに古屋さん。センターラインは捕手=大宮さん、二遊間=高代さん・菅野さん、センターは島田誠さん。
投手は左腕王国で、リリーフエースの江夏さん、先発は高橋一三さん、間柴さん、木田さん、村上マッシー。右は岡部さんが最優秀防御率。
プロ野球ニュースで見ただけですが、忘れられないこの年の試合は、開幕から無敗を続ける間柴さんの連勝が止まるかと思われた試合で、こんなゲームでした。
1981.9.7 後楽園 観衆12,000人
南海ホークス 003 000 000|3
ファイターズ 000 000 004x|4
勝:間柴13勝 負:山内孝7勝10敗
ホークス
(三)藤原
(中)新井
(右)タイロン
(指)門田
(一)上田<アテ馬>
打一 山本雅
一 池之上
(左)久保寺
(二)河埜
(遊)定岡
遊 岡
(捕)吉田
【投手】山内孝-水谷
ファイターズ
(遊)高代
(二)菅野
(右)クルーズ
(一)柏原
(指)ソレイタ
走指 木村
(左)井上弘
(捕)大宮
(三)古屋
(中)岡持
【投手】間柴
岡持さんのサヨナラヒットの瞬間、選手がいっせいにベンチから飛び出し、まるで優勝決定の瞬間だった記憶があります。
そして、これで勢いが加速したか、チームは後期優勝(当時のパリーグは前後期制、82年まで)。プレーオフでもロッテオリオンズを降して、パリーグのチャンピオンになります。これは62年に東映フライヤーズが優勝後、日拓ホームフライヤーズ⇒日本ハムファイターズと球団名が変わって初めての優勝でした。
また、現場を離れた後も日本プロ野球OBクラブ理事長やプロ野球マスターズリーグ委員会議長、モルツ球団監督などを務め、影に日なたにプロ野球の発展と振興に尽力されました。
現役時代、指導者時代を通じて、決して陽の当たる場所にいたわけではありません。しかし、現場を離れても常にプロ野球界に愛情と熱意を注がれた大沢親分、天国でのんびり野球を楽しんで下さい。
ご冥福をお祈り申し上げます。
追記
西武ドームで行われたクライマックスシリーズ第1戦、試合前に大沢親分を偲ぶメッセージが流されたそうです。
試合前には大沢氏しのんで両軍が黙とう
実施を決めたライオンズ、協力依頼に応じたマリーンズ、そして両チームのファン、すべてに感謝したいエエ話です。チームの別け隔てなく球界の発展に尽力された親分も喜んでおられると思います、きっと。
うう、涙が止まらない
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