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尾藤監督追悼~プレイバック1968.3.29 第一歩

箕島高等学校を率いて甲子園で4回優勝(そのうち79年は公立高校唯一の春夏連続優勝)された尾藤公さんが、先月帰らぬ人となられました。
しかし、箕島高校の全盛期は、今から30年以上前。20代・30代のファンの方には【いつもニコニコしてる高校野球の解説の方】という印象しかないかもしれません。

そこで、主だったゲームをプレイバックしていこうと思います。
まずは【甲子園初勝利】です。

苫小牧の先制及ばず 箕島 強力打線ですぐ逆転

苫小牧東 100 001 000 |2
箕  島  300 101 00X |5
苫小牧東:熊沢・畑山-山口  箕島:東尾-田中
本塁打:東尾

苫小牧東
(7)  漆沢
(4)  牛崎
(8)1 畑山
(1)8 熊沢
(9)  木戸
(2)  山口
(3)  木村
(6)  貝田
(7)  藤原

箕島
(6)  鳥羽
(7)  狗巻
(4)  大田
(9)  上田
(1)  東尾
(3)  木村
(5)  野際
(2)  田中
(8)  前野

 二試合連続無安打無得点試合の投手か…スタンドの目をマウンド上で一身にうけた箕島の東尾。堅くなったのだろう。立ち上がりは右肩に力がはいりすぎて、ボールが低めに決まらない。そこへ、苫小牧の脚力を生かした攻勢が加わったから、東尾はますます力んでしまった。
 四球の漆沢に盗塁を許して一死を取り、しかも畑山を2-0と追い込みながらも勝負を急いで左翼線に二塁打された。早々と一転を許した東尾は制球力が無く、自分のピッチングを忘れていた。しかし、不安定な投球を続ける東尾を助けたのは、パンチ力を誇る箕島の強力打線だった。
 箕島の打線は実に力強い。一回、鳥羽が三遊間を破って二死三塁のあと、上田、東尾、木村が連続長短打を放ってまたたく間に逆転。外角へのカーブを上手く巻き込んだ東尾の左中間安打をはさみ、上田、木村が力のバッティングをみせつけた。さらに四回、東尾が左翼へ大会第三号本塁打。六回には木村の二塁打を足場に加点するなど、初出場校とは思えないほどのびのびとした見事な攻撃力だった。
 苫小牧東はチャンスをつかむと果敢な走塁などで東尾を苦しめたが、あと一歩の打力が足らなかった。雪に閉ざされて打撃練習が十分に出来ない不利が現れており、ナイトゲームに入った六回二死から山口、木村の連安打で1点を返すのが精いっぱいのようだった。
 しかし、二回の守りで三遊間の深い当たりをさばいた漆沢三塁手のプレーなど、守備と走塁はよく鍛えられており、存分に力を出し切り、最後まで食い下がった健闘は見事だった。

毎日新聞縮刷版より抜粋・転記しました

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長年にわたって箕島高校の監督を務め、その後も高校野球の発展に尽力された故・尾藤監督の甲子園での記念すべき初出場・初勝利の試合がこの試合でした。
私は小学校1年生、まだ【高校野球】というものすら知りませんでした。高校野球を認識するのは、翌年の三沢-松山商業の延長18回引き分け再試合からです。

この年の箕島は高知商業・広陵という強豪校を破って初出場ながらベスト4に進出し、優勝した大宮工に3-5で敗れました。

箕島の投手・東尾は、説明するまでもなくライオンズで活躍した東尾修さんです。
この年のドラフト1位でライオンズに入団。しかし、【黒い霧事件】にチームは多くの選手が処分を受けてチーム力は大幅に低下。『みんないなくなって、まだ一軍の試合で勝てるような力が付いていない若いぼくでも、投げていかなければならない状況になった。打たれつづけ、負けつづけ、その中から若いなりに体がピッチングのコツというものを覚えていったんですよ』というのは、後の東尾さんのコメントです。ライオンズの経営が西武に移って強くなり、ようやく白星が黒星を逆転、251勝247敗の記録を残して引退します。

記事中に【箕島の打線は実に力強い】という表現があります。しかし、プロに入団後に強打者として大活躍という選手は、箕島高校からは現れませんでした。いや、甲子園での優勝回数を考えれば少ない方でしょう。
しかし、選手一人一人が自身の実力・立場・状況をわきまえて、しぶとく食い下がるという歴代のチームカラーはこの試合で作られつつあったのかと感じました。

大会に出場した高校では、中京・水谷投手(ドラゴンズ⇒オリオンズ、476試合登板108勝111敗)、市立神港・山口高志投手(ブレーブス、195試合登板50勝43敗44S、新人王・最優秀救援投手)、土肥健二(オリオンズ、897試合497安打44本塁打)といった選手がプロで実績を残しています。

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Comments

なにわのヒバゴンさん、コメントありがとうございます。

私の学年の箕島は石井毅-島田宗彦のバッテリーで春夏連続優勝したのですが、スター選手不在ながらしぶとく接戦をモノにして勝ち上がっていきました。その象徴が星稜高校との延長18回の死闘でした。
基本に忠実に、一発は無い代わりに連打を連ね、真綿で首を絞めるように消耗戦を勝ち抜くスタイルは、相手チームの疲労度も大きかったと思います。

プロで一流の目安とされる【100勝・1,000本安打・100セーブ・100本塁打】のラインを突破した選手が東尾さんと吉井の二人だけというのも、スター選手不在で勝ち上がった証だと思います。

最初と最後の勝利が北海道の高校相手というのは知りませんでした、ありがとうございます。

Posted by: シルク | November 21, 2012 at 11:22 PM

こんにちは。私はKKコンビ世代なので箕島の初出場は1歳(実質半年(笑))の春にあたります。ちょいワル親父風(失礼!)の東尾氏にもそんな時代があったのですね。苫小牧東戦の試合ぶりを読ませていただいたかぎり、初陣ながら箕島は試合巧者・強豪校の片鱗が既に備わっていた印象です。‘強打者’というニュアンスは甲子園の勝負どころで滅法強いという箕島打線独特の表現ですね。77年春に豊見城下地投手を粉砕した一戦も中距離砲が集中打で得点を連ねた印象が残っています。名将の誉れ高き尾藤監督ですが、最後の甲子園勝利(91年春)も北海道の旭川龍谷戦というのも歴史の巡り逢わせだったのでしょうか。ベンチで身ぶり手振りを加えながらの‘尾藤スマイル’はその大会も健在でやっぱり和歌山は箕島や~!と再認識しましたね。

Posted by: なにわのヒバゴン | November 17, 2012 at 12:38 PM

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